新説・日本書紀㉕ 福永晋三と往く
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2019年(平成31年)1月19日 土曜日
3年間、労役と租税を免除された民は、宇治帝のために「老人を助け幼子の手を携え、一家総出で材木を運びモッコを担いだ。昼夜を問わず、力を尽くして競って新宮殿を造った」と書紀にある。「比良の宮(未詳)」である。ここに遷宮された時、宇治帝は万葉集7番歌を詠われた。 金の野(香春町金辺川沿いの野)の草を刈って屋根にふいて宿っていた、あの雨漏りした宇治の宮室(同古宮ヶ鼻=阿曽隈社)の粗末な造りがなつかしく思い出される。 409年新春、宇治帝は新宮殿に人々を集め宴を催した。この時に学問の師王仁の詠んだ歌がある。 難波津に咲くや木の花冬こもり 今は春べと咲くや木の花 宇治天皇の新宮殿である遠賀の海の難波津にある比良の宮に咲き誇っているよ、梅の花が。ちょうど、冬、木の芽が盛り上がるように、宇治帝が3年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の京の仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった。天皇は人民と共に富み栄え、新宮殿の成った今を、聖帝の御世の春(勢いの盛んな時期)と讃えるかのように、咲き誇っているよ、梅の花が。 同年6月、大鷦鷯尊に招かれ、宇治帝は「高山」(行橋市入覚の幸ノ山)で3度目の国見を行ったと考えられる。その直後に難波高津宮の近くで宇治帝は無残にも殺害されたようだ。遺骸は焼かれ、『続後紀』に拠れば、「散骨の風が菟道稚郎子に始まる」とあり、香春町の「伽羅松」こそ仁徳天皇の本物の御陵の跡のようである。 比良の宮で宇治帝の帰りを待っていた髪長媛皇后は夫の無残な死を知り、万葉集86番歌を詠んだ。 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを
このように薨去なさったわが君を恋い慕ってばかりいないで、いっその事、わが君が最後に行幸なされた高山まで行き、その高山の岩根を枕にしてわが君の後を追って死にましょうものを。
右は、今日まで大鷦鷯尊の皇后磐姫の歌とされてきたが、実は、髪長媛皇后の歌であったようだ。 大鷦鷯尊即位し皇族を排除
聖帝を殺し、皇位を奪った大鷦鷯尊は、悲嘆に暮れる髪長姫を強引に自分の妃にする。こう歌っている。
木幡嬢子(髪長媛)がさからわずに一緒に寝てくれたことをすばらしいと思う。
さらに、自らの皇位の正当性を主張しようとしたか、宇治帝の同母妹の八田皇女を宮廷に入れようとするが、磐姫皇后の強烈な嫉妬に遭い、断念する。 大鷦鷯尊天皇は今度は、八田皇女の妹の雌鳥皇女を妃にしようとするが、雌鳥は隼別皇子と結婚する。隼別皇子の家来が「隼は天に上り飛び翔けり斎が上の鷦鷯取らさね(隼よサザキをお取りなさい)」と歌うのを聞いて大鷦鷯は軍を発動し2人を追う。2人は香春を脱出し、鞍手町の飯盛山(鞍橋君を祭る)を越え、飯塚市の菰田まで逃げたが、ついに捕えられ殺された。 こうして、西の筑紫王朝は倭の五王の時代(390~502年ごろ)に栄えるが、東の豊国王朝はサザキ系の天皇の時代になり、皇位継承戦を繰り返しながら弱体化し、武烈天皇(499~506年)に至る。 次回は2月2日に掲載予定です
高山(行橋市入覚 幸ノ山)